ネコヤナギとお母さん

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今日、お花屋さんでネコヤナギを見かけまして、
ふと、「春だな~」とぼんやり、してました。

ネコヤナギを見ると、母を思い出します。
というか、母が習っていた、生花教室で、よく使われていたんです。

まぁ、当時、私は4歳だか、5歳だか。
幼い頃の思い出です^^

あのすべすべの、灰色の丸っこいのが、
子供心に「さわりたい」「遊びたい」対象だったのですが、
当然、さわると烈火のごとく怒られました(笑)


私は小さい頃は、とても華奢な子で、すぐに熱を出し、
しかも、どっちかというと、絵本を読んだり、
ままごとをしたりするのが好きな、インドアな子供でした。

学生時代に吹奏楽をやっていた母の趣味で、
私はヤマハエレクトーン教室に通わされました。

4歳のころです。

機械が好きな父が、どこからとも無く、
ビックリするほど古ぼけた電子オルガンを手に入れてきて、
それで練習するように言われていましたが、
さっぱり、練習しない子でした。

でも、食も細く、ことあるごとに熱を出しては、
共働きの両親を困らせるので、あっさりエレクトーンは辞めさせられ、
今度はスイミングスクールに放り込まれました。

両親は共働きだったので、私は小学校入学のころから、
いわゆる「鍵っ子」でした。

家の鍵は、ランドセルにくくりつけられて、
ド派手なピンクのひも付きで、どこからどう見ても目立つのですが、
家の鍵がついている事は、誰にも言ってはいけませんでした。

スイミングスクールは、送迎バスが来るので、
私は小学校に入ると、学校から帰って支度をして、ひとりで、
送迎バスに乗って、スイミングスクールに通います。

体の弱い、ろくに運動の出来ないニブい子だったので、
クロールで25メートル泳ぐことが出来ず、
月末にある進級テストでは、いつも落第でした。

両親は共働きで、私がスイミングに行っている時間は、
まだ仕事中ですから、私はひとり、練習し、ひとりで帰ります。

だから、「惜しかったね」とか、言ってもらえたことは
1回もありませんでした。

スイミングのコーチは、幼い私にはとても怖くて、
でも、サボるとか、逃げるという発想も持てない私は、
ひたすら、律儀に練習していました。

大人の言うことはよく聞く、おしゃまな、いい子ちゃん、
そんな子供だったんです^^

どうしても泳げなかった、ある、進級テストの日、私は見たんです。
こう、泳ぎながら、水の下に、延々続く、プールの青いライン。

いつもは、その青いラインが果てしなく続くんですけど、
その日、ラインが途切れるのが見えたんです!

生まれてはじめて、25メートル泳げた日でした。
コーチも、私によほど、手を焼いていたのでしょう。
ぎゅーっと、抱っこして、ほめてくれました。

ふと、見上げた先で、さらに私は驚きました。
仕事で来られないはずの母が、観覧席で私を見ていたんです。

そして、にっこり、手を振ってくれました。

今にして思えば、母は、仕事だからと言いながら、
実は、頻繁に、私のレッスンを見に来てくれていたんです。

こっそり、見つからないように。
自分の娘が、甘えないように、自立させるために。

25メートルを泳げるようになった私は、
そのあと、すいすい泳げるようになりました。

自転車を克服した子が、あっというまにすいすいこいで行く、
あんな感じです。

25メートルのクロールから進級し、
次は背泳ぎを、その次は平泳ぎを、バタフライを、と、
ひととおり進級した私は、無事、「上級クラス」入りしました。

これが、7歳の頃です。

おかげで、風邪を引く回数も減り、
水泳の授業では、学年のトップを独走でした。
普段は、体育はビリだし、逆上がりも跳び箱も出来ないんだけど。

その後、実家が引越しをしたのを機に、
スイミングには通わなくなりました。

でも、地域で行われるバレーボール教室とか、
そういうのには、いつも放り込まれました。

私が小学4年生だか、5年生だかの頃から、
母は、胃薬をよく飲むようになりました。

「胃が痛い」が口癖で、毎日、胃薬を飲んでいます。
「病院に行けば?」と、何度もいいましかが、
小学生の娘の話をまともに母が聞くわけも無く、
私も、それが、あんなことになるとは夢にも思わず・・・・・・。

私は、おかげで、順調に育ちました。
もともとおしゃまな子でしたが、この頃には、
ずいぶんな「ませガキ」になっていました(笑)

私が13歳の誕生日を迎えた9月11日(誕生日)。
母は、とうとう、父に、
「どうにも胃が痛いから病院に連れて行け」と言い出しました。

すでに日は落ち、夕食の直前、父の帰宅後すぐのことです。
病院に出かける前、母は私に言いました。

「お誕生日、帰ったら、絶対お祝いするからね」

でも、母は、家に帰ってはきませんでした。
緊急外来に行った母は、そのまま、
もっと大きな市民病院に送られました。

そこで、父は医師に告げられます。
「卵巣ガンです。それも、すでに第3期に入っている」

母の体には、すでに、あちこちに転移をはじめたガンが、
巣食っていました。

当時の母は、まだ34歳。
ガンの進行は、とても早いだろう。

    手術をしても、あと、半年です。

手術をしなければ、3ヶ月持たないだろうと、宣告されたそうです。
緊急に、手術が行われました。

私と、6歳下の弟は、近所に住む、おばの家に預けられました。
母には、ガンの告知をせず、
「重度の胃潰瘍」だと言っていたそうです。

しかし、そんな見え透いたウソが通るわけも無く、
母は、自分で自分の病名を察知します。

自分が助からないことを悟った母は、
それから日記を付け始めました。

13歳の娘へ、7つになったばかりの息子へ。
その日記は、今でも、私たち家族の宝物です。

まわりの大人たちは、私にだけは、病名を悟られまいと、
ひた隠しにしていました。

けれども、ませガキだった私は、悟ってしまいます。
あまりに長い母の入院。見舞いの制限。
退院の目処すら教えてもらえない不安な日々。

ある日、おばを問い詰め、真相を聞きました。
おばは正直に、話してくれました。

けれども、私の心は、晴れるどころか、
不安や寂しさや、実感のわかない恐怖に、狂いそうでした。

その頃、母の体には、さらに新しいガンの転移が確認されました。
鎖骨の辺りが痛いと言うので調べたら、
リンパに転移している、というので、再手術が行われます。

すでに、活気に満ちていた母の姿は、無残にやせ細り、
長く歩くことも、出来なくなり始めていました。

腕に点滴を刺す箇所もなくなり、胸の辺りにチューブを通し、
全身が点滴の傷跡や手術痕で、痛々しい姿でした。

この頃、父は、医師に告げられます。
子供たちを、なるべく面会させるように。
もう、面会できる、残された時間はとても少ないから。

私たち姉弟は、日曜日のたび、父に連れられて、
母の見舞いに行きました。

すでに、食べ物も、自由に食べられなくなった母が、
唯一、おいしいと言って食べていた、「たこ焼き」を買って。

普段は、おばの家と学校を往復しているだけの私は、
母からも、大人たちからも、寄り道は固く禁じられていました。

けれど、私は、一度だけ、規則を破って、
母を見舞うために、いつもと違うバスに乗ります。

突然、見舞いに来た娘を、あんなに怒りんぼだった母は、
怒ることもせず、やさしく迎えてくれました。

「髪、のびたね」「学校はどう?」
「野菜の煮物は、ああして、こうして・・・」

そんな、何気ない会話を交わし、「次は、みんなでおいで」と、
やさしく送り返してくれました。

母は、その後、数回、一時帰宅を許されます。
気になっていた観葉植物を世話したり、久々に料理をしたり。

私にも、料理をさせました。
多分、手際を見て、この先、自分のいない暮らしのために、
備えさせたのでしょう。

私の誕生日も、そこで祝ってくれました。
2ヶ月遅れでしたし、いつも作ってくれるはずの、
母お得意の手作りケーキもありませんでしたが。

私は、母があまりよくないことを知っていたので、
いつもより寂しいお誕生日でも、全然へっちゃらでした。
いつもの日常に近い、母の気配がとてもうれしかった。

そんな一時帰宅で、母が病院へ戻る朝、
時間がなくなってしまい、朝食の後片付けが出来ないまま、
私は学校へ行かねばなりませんでした。

母は、にっこり、「私がやるからいいよ」と、
私を送り出してくれました。

実は、このとき、前のリンパの手術以降、
母は右腕にしびれが残り、思うように腕を使えなかったんです。

そのことは、父も、おばも、私も、
誰一人、知りませんでした。

母が亡くなったあと、幼い弟が、ポツリと、
「お母さん、右腕が動かないんだって言ってた」と、
私に言ったことで、「あぁ、そうだったんだ」と知ったのです。

幾度か、一時帰宅を許されたのは、
秋風がだんだん冷たい冬を運んできていた、11月のころ。

12月に入ったある日、突然、私はおばに知らされます。
「お母さん、ここのところ、よくないんだよ」

12月半ば、母は、何度も危篤になりました。
もう、起き上がることもできません。

しゃべることも、できません。
筆談も、何を書いているのか分かりません。

でも、懸命に、母は生きていました。
まだ、そこに、命が確かにあったんです。

母は、まだ、ささやき声なら出せるうちに、
私と弟を呼びました。

弟には、「いい子にしてね、お姉ちゃんの言うことを聞いてね」と。
私には、「普通に生きなさい。普通に、ね」と。

今思えば、「普通ってどういう意味よっ!?ヾ(*`Д´*)ノ”彡☆」と、
母にツッコむところではありますが、
それが、母との最後の会話でした。

母を失った13歳の誕生日から3ヶ月。
12月22日の早朝、母は息を引き取りました。

小雪の降る、寒い朝でした。

享年、34歳。

13歳のおませな娘と、たった7つの甘えん坊な息子を残し、
自分が死に逝かなければいけなかったことが、
どれほど悔しく、切なかったかと思います。

でもね、お母さん。
あなたが逝って24年。
私たち、みんな元気だよ。

今度、弟が結婚するの。
7つだった弟も、いまや31だよ、すごいよね^^

でね、私、お母さんに謝りたいことがいっぱいあるの。

お母さんが胃薬ばっかり飲んでたこと、
おばちゃんやおばあちゃんにも、もっと言いつければよかった。

学校帰りに、こっそりお見舞いに行ったこと、
もっと、何回も行けばよかった。

一時帰宅のとき、学校に遅刻してでもお皿洗いをすればよかった。

ごめんね。

でも、ありがとう。

長くなっちゃったけど、読んでくださって、
ありがとうございます^^

コメント

  1. インフォマイスター 白井 より:

    インフォマイスター 白井です。
    大切な人ほど、いつの間にやらいなくなってしまいますよね。
    私の大切な人はまだ在命ですが、少し離れたら……ということで、少し心配です。
    今のうちにやるべきことはやっておかないと、と思います。

    • もりりん より:

      インフォマイスター白井さん、ありがとうございます^^

      私の大切な人は、あっけなく、いなくなってしまいました。
      今、生きていれば、どんな未来があったのかな、なんて、
      しみじみ思います。

      でも、その分、私が一生懸命生きて、
      笑って天国で会えるようにしないといけませんね^^

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